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息子に代わって城を守り抜く!戦国の世で最も勇敢だった女性「妙林尼(みょうりんに)」

息子に代わって城を守り抜く!戦国の世で最も勇敢だった女性「妙林尼(みょうりんに)」

いつの時代だって女性は強いもの。現代でも強くてかっこいい女性はたくさんいますが、日本の戦国の世にも勇敢なひとりの女性がいました。

その名も、妙林尼(みょうりんに)

聴きなれない名前だと思いますが、今回の記事では、そんな彼女について詳しくご紹介したいと思います。

妙林尼(みょうりんに)とは?

残念ながら史料にその名があまり残っていないため(『大友興廃記』『両豊記』、そしてルイス・フロイスの文書に彼女と思われる人物の記録があります)、生没年はわかっていませんが、戦国時代に活躍した女性で、大友氏の家臣の吉岡鑑興(よしおかあきおき)の妻です。

また、吉岡妙林、吉岡林子と呼ばれることもあります。本名はわかっていませんが、夫が耳川の戦いで亡くなったあと、尼として生きることになった彼女。

居城は息子が当主となって継ぐことになりました。

妙林尼の活躍!鶴崎城攻防

九州において、島津氏の勢いは止まりません。秀吉の九州征伐が始まりますが、派遣された仙石秀久長宗我部元親は島津軍に敗退。島津軍や臼杵城と同時に鶴崎城にも軍をすすめます。

妙林尼の息子が当主となっていましたが、このときばかりは事情が違いました。息子は別の城に籠城中で、なんと鶴崎城には妙林尼とその家臣たち、さらには老兵や女性、子どもなどしかいませんでした。

そこで指揮を任されたのが妙林尼。島津軍との圧倒的な兵力の差がありましたが、あきらめないのが妙林尼でした。砦を完成させ、自ら農民や女性らに鉄砲を教えたと言います。

また、この砦には色々な仕掛けが施されており、落とし穴などもありました。このことで、島津軍は鶴崎城を落とすことができなかったそうです。

その後、開城を余儀なくされますが、智略をめぐらせ、最終的には鶴崎城を奪還しています。

 

彼女の名が史料に残っていない理由

先ほどご紹介したとおり、彼女の名前は数えるほどの史料にしか残っていません。

というのも、当時の家系図には男性の名前を載せることが基本で、女性の名前は単に「娘」とだけ記載されることが一般的だったからなのです。

そのことから、妙林尼のように目立った活躍をしなければ、名前すらわからない女性が大半だったということになります。

いかがでしたか?この記事が、みなさんが少しでも歴史に興味を持つきっかけになれば嬉しいです。

 

参照元https://dailynewsonline.jp/