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サンドウィッチマン「死んでお詫びするしか」思い詰めた過去も…NHK出禁から奇跡の大躍進「愛される秘密」

サンドウィッチマン
サンドウィッチマン

 春の番組改編が終わって約2か月。テレビをジャックしている芸人がいる。

「新しく始まった『ZOO -1グランプリ』(TBS系)など、サンドウィッチマンが19時台の番組に週5日、出演しているんです。それを含め、13本のレギュラー番組に、8社のCMもあります」(民放関係者)

 今回は、なぜ彼らが引っ張りだこなのか、その理由を探っていきたい。

 2018年、雑誌『日経エンタテインメント!』の「好きな芸人」調査で、14年連続でトップだった明石家さんまを退け、1位に輝いたサンドウィッチマン。その後も同調査で3年連続1位を獲得しており、その地位は盤石と言える。

「その風貌からか、かつてNHKは “出禁”で、人気ネタ番組爆笑オンエアバトル』にも出られなかった。それが、19年と20年には『NHK紅白歌合戦』の審査員を務めたんですから、大出世ですよ」(前同)

 お笑い評論家で江戸川大学教授の西条昇氏は、テレビでの彼らをこう分析する。

「子どもと絡めるし、お年寄りとも大丈夫。局としても、安心して使える存在です」

 番組におけるスタンスも評価されているという。

「比較するなら、さんまは“さんまの笑い”を拡張しますが、サンドウィッチマンは各々の番組の構成まで理解して、“企画を生かすための自分たちの役割は何か”という放送作家的な視点を持っている。

だからスタッフ受けがいいんです」(前同)

 そんな彼らの笑いの原点は、ともに汗を流した高校のラグビー部にある。

「女子高に忍び込み、校庭の真ん中にラグビーボールをトライしたり、練習場の隣にある池で竹槍を使って人面魚を捕獲しようとしたり」(テレビ誌記者)

 と、ネタのような生活を送っていたという。高校卒業後、富澤がサラリーマンだった伊達を3年かけて口説き、コンビを結成する。

「1998年に上京すると、板橋区の家賃6万円台のアパートに同居。その後10年間、人は布団を並べて寝ていたそうです」(前同)

■バラエティ番組を見るたび“爆弾が落ちろ”とつぶやいていた

 劇場ではウケるが、テレビ局からはお呼びがかからない日々が続いた。

業務スーパーで、もやしを2キロ買って、毎日、もやし丼を食べていたそうです。幸い、伊達の実家から米が送られてくるから助かったとか」(芸能記者

 当時の心境は、どんなものだったのだろうか。

「富澤は、バラエティ番組を見るたび“爆弾が落ちろ”と、つぶやいていたとか。“今、テレビに出ている芸人が全員死ねば、俺らが出られるんじゃないか?”と、本気で思い詰めていたそうです」(前同)

 一方の伊達は、どうか。

「“もし、そうなっても、俺らの出番はないよ”と心の中で思っていたそう。よく気分転換に、自転車を2人乗りして隣り町まで行ったと語っています。“うまいコロッケ屋を見つけたから行ってみようぜ”などと、誘っていたとか」(同)

 29歳のとき、「この世界に誘った責任」を感じた富澤は、解散を持ちかけた。

「彼は“死んでお詫びするしかないのか”と、自殺まで考えていたと、後に語っています」(同)

 終わりの見えない地獄の日々。伊達は、こう返した。

「彼は“まだ解散するまでの挑戦をしていない。そこまで俺たち、立っていないんじゃないか”と。そして、2名が30歳を迎える残り1年をタイムリミットとして、“どんなライブにも出よう”と決意したそうです。

年間180本のライブに出演して、漫才の腕を磨き続けました」(同)

 勝負の年と定めた2005年、当時、人気絶頂のネタ番組エンタの神様』(日本テレビ系)に出演を果たす。そこから、彼らの快進撃が始まった。

「都内の劇場を片っ端から番組スタッフが見て、無名でも面白い芸人を発掘。その中で、数々の名番組を手がけた五味一男プロデューサーの目に止まったのが彼らだった。五味氏は“なんで君たちは埋もれていたのか!”と驚いたと語っています」(テレビ局関係者)

 07年12月23日、サンドウィッチマンは敗者復活戦から勝ち上がり、『M -1グランプリ』(テレビ朝日系)で優勝。審査委員長の島田紳助は、「敗者復活組の優勝があるとしたら、圧倒的な力を見せつけなければならない。しかし、彼らは本当に圧倒的だった」とコメントを残した。

参照元:https://dailynewsonline.jp/