彼の活躍は、日本の兵力20万人分に相当すると言われ、日本の勝利に大きく貢献しました。ただ、影の功労者と呼ばれているように、元二郎の活躍を知る人は意外と少ないです。
そこで、今回は明石元二郎がどんな人物だったのか、どのような作戦をとって日本を勝利へと導いたのかを紹介します。
明石元二郎について元二郎は19歳で陸軍士官学校へ入学、そのまま陸軍大学校へ進み卒業。その後、ドイツ留学を経てインドシナ島やフィリピンなどに駐在し、1901年には37歳でフランス公使館付の陸軍武官に就任しています。
日露戦争では主に諜報活動に徹し、ロシア内部から破壊工作を行いました。
ちなみに、元二郎の父親は福岡にある黒田藩の武士であり、関ヶ原の戦いや大坂の陣で豊臣軍に加勢し名をあげた武将「明石全登」の末裔だと言われています。
米西戦争での経験元二郎は、日露戦争前フィリピンに駐在していました。
「アメリカとスペインの間で起こった米西戦争」を観戦したことがきっかけで、諜報活動の重要さを知ることになります。
なぜなら、アメリカは諜報活動を通じてフィリピンを意図的に蜂起させ、スペインを攻撃するように誘導して見事勝利したからです。
このような手法に感銘を受けた元二郎は、「日露戦争でもこの時の経験が大いに生かされた」と話しています。
日露戦争が始まると、明石は反ロシア政府勢力に資金援助を行い、妨害行為や反戦デモ、要人の暗殺などロシア国内で多くの事件を意図的に誘発させました。
さらに、1905年には「血の日曜日事件」と呼ばれる大きな事件が起こります。
圧政を続けるロシア皇帝に対して帝政を撤廃することや労働条件の改善を求めた数万人の民衆が、日露戦争終結を目的にデモ行進を敢行。
ロシア政府は軍を派遣しましたが鎮圧することはできず、軍側の発砲により多数の死傷者を出してしまう悲惨な事件となったのです。
血の日曜日事件は、ロシア全土に波紋を呼びストライキの拡大や反乱活動の活発化に影響し、ロシアは戦争を続けられる状況ではなくなりました。
この事件の裏では、元二郎が資金提供や集会を開くなど手を引いており、日露戦争終結への舵を切らせたと言っても過言ではありません。